現在は医療機器などの進歩によって数値で健康であるか不健康であるかを客観的に
決定される時代ですが何か違っているように感じています。
病因の検査で必要以上に心配してしまい、強迫観念の恐怖症になってしまう方が
少なからずいます。
三木清の「健康について」を読んで少し考えてみましょう。
「近代主義の行き着いたところは人格の分解であるといわれている。しかるに
それともに重要な出来事は、健康の観念が同じように分裂してしまったことである。」
健康に関しては個人的なものであり、養生論は根底に自然哲学がある。」
近代科学が窮迫感から出発するのに対して、自然哲学は所有されている健康の所有感から
出発する。近代科学が発明的であるのに対して、自然哲学は発見的であり、所有されている健康から
出立して如何にこの自然なものを形成しつつ維持するかが問題であった。」「何が自分のためになり何が自分の害になるかの自分自身の観察が健康を保つ最上の
物理学である、健康は各自のものであるという単純な真理である。「健康の問題は人間的自然問題である。というのはそれは単なる身体の問題でない
ということである。健康には身体の体操とともに精神の体操が必要である。」「私の身体は世の中の物のうち、私が思想が変化することの出来るものである。
想像の病気は実際の病気になることが出来る。」「何よりも自分の身体に関する恐怖を遠ざけねばならぬ。恐怖は効果のない動揺を
生ずるだけであり、そして思案はつねに恐怖をますだろう。」「自然に従えというのが健康法公理である。自然に従えというのは自然を模倣する
ことである。」「模倣の思想は近代的な発明の思想と異なっている。その利益は無用の不安を除いて
安心を与えるという道徳的効果である。」中医学が自然の観察から体系化されていった歴史に似ています。
ここで「自然」という言葉が出てきますがこの何を「自然」というかが大変難しい
問題です。「新版 漱石論集成」柄谷行人は次のように言っています。
ここに漱石が『虞美人草』以後長編小説の骨格にすえた、「哲学」が端的に
示されている。人間の「自然」は社会の掟(規範)と背立すること、人間は
この「自然」を抑圧し無視して生きているがそれによって自ら荒廃させてしまう
ほかないこと、代助がいっているのはこういうことだ。注意すべきなのは、漱石が「自然」ということばをきわめて多義的にもちいて
いることであり、逆にいえば今日のわれわれならさまざまな言葉でいいあらわす
ものを「自然」というたった一つの言葉に封じ込めていることである。
そのこと自体は、おそらく漱石に固有の時代的教養の産物といってよい。・・・・・・・・・・・・・・
「自由」でなく、あくまでも「自然」という言葉が必要だったのである。
中医学も一つの言葉を狭義・広義・多義的に使用しています。また同じ意味する
言葉を多くの言葉に変えて表現しています。「自然」という言葉も個人で使用する
意味が変わってくるでしょう。
親鸞などが言っている自然
「人為を放棄するところにより現れる自生的救いの力であり仏という他者に
ほかならない。いいかえれば自然とは他力のままに身をゆだねることである。」
また荘子(外篇・雑篇)では
自然を自分の本性の内にあるとし、本性の自然のままに生きることを理想と
している。のちに禅に影響し自分の心の内にある仏ないし自然をどのような
道を通って自覚するかというところにあり、禅宗はこれを座禅に求めるようで
ある。
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